憎しみについて

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臨床心理学の研究者のあいだでは「事例研究」というものが非常に重要とされています。事例研究とは言葉どおり、ひとつひとつのカウンセリングの事例(ケースともいう)を、各々の研究者が持ち寄って発表し、クライエントにどう接し、どのような問題や効果があったのかを検討することです。

人はそれぞれ個性があり生き方も十人十色です。カウンセリングルームに持ち込まれる悩みや苦しみも、人によって全く異なります。その事例をつき合わせることに意味があるのだろうか?無駄なことではないのだろうか?そんな疑問を長らく持っていました。

けれどもたくさんのケースをなぞりながら研究者同士でディスカッションし、ベテランの教えを受けることで、カウンセラーは様々な人間と向き合う機微のようなものを知らず知らずに得ていくそうです。「これがカウンセリングの手法だ!」と核心的かつ抽象的な言葉でノウハウを与えられたところで、それは言葉として理解したとしても、真に身にはつかないのかもしれません。

他人のブログを読んでも、漠然としたことが書いてあるより、具体的なエピソードが綴られているほうがよっぽど面白く心にしみ込んできます。自分が書いたブログを読み返しても同じです。だからここまでの私の文章は、おそらく読んでいる人には全然、面白みがなく心に響いていないでしょう。ハイ、分かってます。

で、ここからは自分のことを具体的に綴った、お待ちかねの心情吐露なのですが…。

最近、「憎しみ」について考えています。

私はよく人から「いい人」「親切」「聞き上手」「優しい」「話しやすい」「母のよう」と言われます(そう感じておられない方、すみません)。実際、それらの言葉の通りありたいと思っているし、そのようにふるまうよう常日頃から心がけています。長く生きて色んな経験をした(と思っている)おかげで、今では職場でもプライベートでも嫌いな人はいません。人と衝突することも皆無といっていいほどありません。夫との別離ですら人が驚くほど円満にスムーズに完結させ、今も関係は良好です(これって非常に難しいことのようですよ)。

けれども、最近、自分の中には常に「憎しみ」の炎がともっていることに気付きました。

いや、前々から薄々気付いていましたが、知らないふりをしていました。しかし自分に素直になればなるほど、人から私の「人のよさ」を指摘されればされるほど、私のなかで別の私が「いいえ、違う。私の心には、憎しみが常に宿っている」と叫ぶようになったのです。

誰に対する憎しみだろうか、何に対する憎しみだろうか。それはここで言及することはありませんが(その具体的な内容を読者は知りたいのでしょうが)、自分の心に憎しみが存在することを認めたことで、私は少しラクになりました。このブログにも、日々、ロマンティックで美しい言葉を並べて綴っていますが、私だって憎悪や毒というものを内奥に抱えているのです。

悪夢あるいは良い夢を見ることで人は自分の心理状態のバランスをとっている、という説があります。自分の心に様々な要素があること、とりわけ負の感情があることから目をそらしていては、真に良い人間になることはできないのかもしれません。憎しみの存在を認識したとして、そこから解放されるかどうかは、これからの私次第。今日も憎しみの炎を燃やしながら、良い人であるよう努めています。

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