汗とともに

140727

皮膚の内側から、気泡のような蒸気のようなものがブツブツと沸き上がってくる。

水滴が額から、頬から、二の腕から、胸元から吹き出してはしたたっていく。自分が、冷蔵庫から出したばかりのペットボトルになった気分になる。

タオルで拭き取ると、ベランダの窓から玄関の廊下にかけて、わずかに動いている風を感じる。それだけでも涼を感じてほっとする。

ゆきちゃんから差し入れにもらったジンジャーのエキスと黒酢を炭酸水で割って、ごぐごくと飲む。酸っぱさと辛さに身体が喜んでいるようだ。

午前中、大文字の山に登りに行こうと支度していたら、とつぜん空がネズミ色になり、大雨が降ってきた。計画倒れになったら嫌だなあと思いつつも、部屋に吹き込む風の量が一気に増えて、涼しさが増して気分が良くなった。しばらくは家でゆっくりと過ごすことにしよう。

今の住まいに越して来て初めての夏を迎えた。まだ夜に一度もエアコンを付けず、昼間も来客時以外はまったく稼働させずにここまで来た。それで前述のような汗をかく日々となっている。

築30年以上の古いマンションの購入時の間取りは3LDKだった。LDKとふたつの部屋の壁を思い切って取り払い、廊下に面した残りの一室を寝室にしつらえた。

もともと大きな空間には前の住民が取り付けた比較的新しめのエアコンが付いていたので、それを使うことにした。寝室の小さな部屋にはエアコンがなかった。けれども北向きだったので、しばらくは取り付けずに様子を見ることにした。

この家に決めた理由が、明るさと風通しの良さだった。南北に窓とドアがあって、常に風が通っている。

子どもの頃に住んでいた大阪の泉北ニュータウンの高層団地もほぼ同じ間取りだった。

お風呂上がり、最も風が通る廊下に父が素っ裸で仁王立ちになり、「ああ涼しい。極楽だ」とタオルで身体を吹いていると、近所のおばさんが通りかかって開け放ったドア越しに「あら嫌だ!見ちゃった!」と叫んで走り去ったことが何度かあった。

「あのおばさん、喜んでたんやで」

父がまんざらでもなさそうに言うのを見て、恥ずかしさとバカらしさを感じたことを覚えている。あれは私が小学生の頃だった。

あの頃、クーラー(当時はエアコンなどという言葉にはなじみがなくクーラーと呼んでいた)を付けることは、父の給料日の週末にご馳走を食べることと等価なくらい、特別なことだった。また、エアコンは家に一台しかなく、それはリビングと一続きになっている客間と両親の寝室を兼ねた和室にあるのみだった。

「暑い!クーラーを付けるぞ!」

夜中に父が叫んで、両親の寝室のドアが閉め切られた。それがクーラーONの合図だ。ドアを閉めるのは、節約のために和室のみを冷やすからだ。おもむろに室外機の音がぶんぶんと鳴り始める。すると隣の部屋で大汗をかいていた姉と私がいちもくさんに両親のふとんの隅っこを陣取る。痛いほどの冷風が六畳の和室を満たす。

「ああ気持ちいい」

「クーラー最高やね」

と皆で喜び合って、眠りにつく。明け方になって外の気温が下がるとクーラータイムは終了となり、再び部屋の窓すべてが開け放たれて、私と姉は、父に追い立てられて子ども部屋へと戻らされる。

そんな思い出は、はるか昔。大人になり、いつしかエアコンが付いた部屋にいるのが当たり前となった。ワンルームマンションに住んでいたひとり暮らし時代も、結婚期間も、ずっと夏はエアコンのお世話になった。とりわけ、京都に移り住んで吉田の一軒家に住んでいた5年間は、暑さに弱い前夫が管理権を握っていたため、凍えるような冷気のなかで、時に震えながら過ごしていたものだ。

今年の夏はその反動だろうか。寝室のエアコンをいつか買い足そうと思いつつも、まだ小さな扇風機だけで夜を過ごしている。

けれども単に自分の忍耐力を試しているわけではない。身体がそれなりに暑さに対応し、また、暑さそのものを歓迎しているように感じる。人工的な涼しさをあえて作り出す必要性を感じていないという状況でもあるのだ。

汗にまみれて過ごすのは不快ではあるけれど、一方で、わずかな風の動きにも敏感になり、冷たいシャワーを浴びたりタオルで吹いた後の心地よさが格別に感じる。

また、体調自体も良く、代謝機能も上がった気がする。おかげで少しだけ体重が減った。風邪も今のところひいていないし、湿度のおかげか肌や喉の調子も悪くない。

そういえば、ここに引っ越したのを機に、食洗機を処分した。さらに室内用のほうきとちりとりを購入し、極力、掃除は手動でおこなうようにした。特にそのことで不便は感じておらず、むしろ、キレイにしたいときにさっと作業できるため、掃除に対する精神的負担が格段に減った。

思えば、嬉々として高度経済成長の恩恵を受けて便利な暮らしを獲得していった両親のもとで成長し、お金を出せば何でも手に入る豊かな社会にいることが当たり前の半生を送ってきた。効率化と合理性を優先することは当然のことだった。暑さ寒さも「自然の摂理」とは受けとらず、自然がもたらす不快を抹消するために、文明の利器を駆使して快適性を手に入れてきた。

もちろん、エアコンを使わず食洗機をやめたのを契機に、原始的な暮らしに一気に戻るつもりはない。そんなこと、できやしない。

けれども、少しだけ自分の心身が自然界の一部に属していることを意識して、不便さや不快さを負のものとせずに受け入れてみる。そこから得られる身体性や感覚の再認識や発展、というのもあるのではないだろうか。

そんなことを書きつつも、来週あたりヨドバシカメラに行ってエアコンを注文している自分がいるかもしれないけれど。

過酷な京都の夏だけど、夏ならではの愉しさ、歓びもまた沢山ある。

この夏は、たくさん汗をかこうと思う。

写真は、下鴨神社でおこなわれているみたらし祭の縁日の風景です。糺の森はやっぱり気持ちが良かった。

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