Moonlight Journey

0612

バルコニーを心地よい夜風が吹き抜けていく。

洗濯物を干し終えて、ふと見上げたら、ビルとビルの隙間からまるく大きな月がのぞいていた。

満月かな。それとももうすぐ満ちるのかな。街中のマンションの2階に越してからというもの、空が狭くなってしまった。でも、今夜はツイてる。

白く透きとおった光を放つ月をしばらく眺めて、部屋に戻った。じっとしていられず、買ったばかりの自転車と共に外に出た。

茶色いフレームの小径サイクルは、半年がかりで探し求めてようやく見つけたお気に入りだ。先週、寺町押小路の Fridge という店で買った。

もともとカゴがなくて、黒いスチール製のを付けてもらったけれど、どうしても気に入らず、藤のカゴに替えてもらった。

「嗚呼。自転車本体よりもカゴの方が高いなんて」

「大丈夫!カゴだけで2万円、っていうのもありますから!」

店主が笑って慰めてくれた。

麩屋町通りをどんどん南下していく。革島医院の洋館のツタの葉々が月の光で黒く輝いている。

「れいこさんは、月なんですよね。最初に会ったとき、明るいだけじゃなくて、何かが後ろっかわにあるなあと思って。それで、月だと思ったんです」

最近、スピリチュアルな発言が多い板前のもんちゃんが、前々回、店で話していた言葉が頭をよぎる。

そうかあ、月かあ。月だとしたら、月齢何日目ぐらいなんだろう。

そういえばいつだったか、人のオーラが見える、という占い師と知り合ったときに「あなたには黄色が足りない。黄色いものを身につけなさい」と言われたことがあった。それとも関係がありそうだ。

お店は少しお客が引いて、いつものウノさんと白メガネさんと、サラリーマンっぽいスーツのひとり客と、年配のカップルがひと組いるだけだった。

カウンターでまかないを食べていた新しいバイトの男の子が挨拶してくれた。大学4年生だって。さすがによく食べる。彼のいるコーナーだけ学生食堂のようだ。

バイトくんにビールをふるまって話を聞いたら、このあいだIT企業から内定をもらったばかりだという。

「もう内定をもらうなんて、すごいね。真面目そうだし、きっと仕事もうまくいくよ」

「僕ね、よく人からマジメそう、って言われるんです。マジメって、どういうことなんでしょうね。友達から『お前はマジメやから』と言われるときは、あまりいい意味じゃないと思うんですけど」

「そうねー。友達は揶揄してゆってるかもしれないけど、やっぱり真面目って大事だよ。誠実と真面目が、いちばんだと思うなあ」

「そうですかねえー」

「そうよー。何より笑顔がいいもの。うまくいくよー」

「(ニコ)」

甥っ子と同い年の店員を相手にこんな話をするなんて、私も年をとったものだ、と苦笑いしてグラスを空けた。

食器のふれあう音、ステンレスの冷蔵庫を丁寧に拭き上げるもんちゃんの横顔、ウノさんの彫りの深い赤ら顔、杉の板壁に貼られた愛宕神社のお札。いつもの風景を眺めながら、不思議な思いに包まれた。

去年の今ごろ、私は此処にいなかった。

私という存在は、この店にいる人たちに知られておらず、私もこの店に関わる人たちを認知していなかった。

9月のはじめ、柔らかな暖簾をくぐったときから、この場所が私の暮らしの一部になった。あれからまだ一年も経っていない。

あのとき店を訪れたのは、当時、内に秘めた切実な思いがあったからだ。掌からこぼれ落ちていく大切なものを何とかしたかった。尋常ではない自分の心を鎮める手段があるならば、藁にもすがりたい思いだった。

夕なぎの蒸し暑さで額に汗を流しながら、お茶の稽古の帰りに意を決して引き戸に手をかけた。カウンター越しに私を見つけ、ニコッと目を細めたあけみさんの笑顔に迎え入れられたとき、私のなかの凍った塊がわずかに溶け始めるのを感じた。

セレンディピティ。

”何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける力”、そんな意味の言葉。

もし私にわずかでもセレンディピティがあったとしたら、小さなこの店に居場所を見つけ、小さな出会いを経験し、あたたかな関係を手にすることができたということが、それなのかもしれない。たとえそれが、ゆるく、脆く、不確かなものだとしても。

おやすみなさい、と店を出た。

高倉通りの端に停めた茶色い自転車の鍵を解いて、ふたたび夜風のなかを走り出した。まるい月がいよいよ白く輝いて、路地を、街を照らしていた。

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