結界を越えて

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朝、息子を保育園に送り届けたあと、徒歩で5分ほど離れた大学の研究センターに出勤します。

保育園と研究センターのある界隈は昔ながらの住宅地で、毛細血管のような路地が何筋も通っています。いつも私が決まって通るのは、太い車道の一本西にある写真の路地です。

その路地を通るとき、いつも頭には「結界」という言葉が浮びます。私にとって、ここは私自身のモードを切り替える結界の役割を果たしているのです。

古い民家の窓や植木の葉が間近に迫る細長い空間をゆっくりと進むうちに、私のモードが少しずつ切り替わっていきます。母親から女性へ、プライベートからオフィシャルへ、喧噪から静寂へ、日常から非日常へ。

茶の湯の道具にも「結界」というものがあるのをご存知でしょうか。茶室で点前をする者が座る道具畳(どうぐだたみ)と、客が座る客畳(きゃくだたみ)を区別するために、細い板を立てて隔てます。

お店にかけられたのれんも結界のひとつ。のれんが揺れていれば、それは入って良いサイン。くぐればそこは店主が作り上げた異空間。客は限られたあいだ、その世界の住人となって特別な時間を過ごすのです。

人間と人間のあいだにも、見えない結界が存在します。結界は越えられるときもあれば、越えられないときもある。無意識のうちに結界の位置や高さを変えて、人と自分の隔たりを調節する。見えないからこそ、結界を巡って細心の注意が必要なのでしょう。

フラット化する社会、という言葉が流行したことがありました。ネットも普及し、グローバル化が進み、世界はよりカジュアルにフラットに変化しているのかもしれません。結界が失われたことによる弊害もあるかもしれない。現代人の心の疲弊もそこから生じているのかもしれない。

けれど、今の時代もやはり、見える部分、見えない部分で結界は存在しているのだと思います。様々な隔たりを行きつ戻りつしながら、今日もこの世界で生きています。

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