茶会と平常心

140512

5月11日、伏見の御香宮神社でおこなわれた茶会で点前をしてきました。お茶会というのは主催する亭主がいて、茶室の中心で客人をもてなすのですが、大きな茶会では亭主はお茶を点てずに別の担当が点前をします。今回、総勢150人以上の客を迎える大きな茶会で、一日合計10席が持たれ、そのうちの2席で私は点前を担当しました。お茶をはじめて2年、まだまだ所作をおぼえるのでやっと、という段階だったにも関わらず、師匠から「やってみる?」と声がかかったのが3ヶ月前。以来、プライベートでの引っ越しと共に大きな命題として頭を支配してきたイベントでした。

4月の引っ越し後、幸い家には茶の稽古を念頭に置いて畳のスペースを用意していましたので、早朝に目が覚めたあとすぐに稽古するのを日課にしました。二日酔いで起きられない日もありましたが(苦笑)、ほぼ毎日、湯を沸かして茶道具を用意し、師匠の教えを脳内で再現しながら手順をなぞる日々を送りました。

「頭さえ真っ白にならなければ、順序は大丈夫やね」と師匠のお墨付きをもらったのが一週間前。「平常心」。私にとって最も大きな課題が、この平常心であること、でした。なぜなら子供の頃から、メンタルの波が大きく、心が水面なら大波小波で揺れるばかりで平常心とはほど遠い心のありように悩み続ける日々だったからです。それは大人になっても変わりませんでした。なのにコンプレックスの裏返しか、司会者という肝っ玉が問われる仕事についてしまったときも、イベントごとにヘトヘト、心労で疲労困憊になるほど「弱い心」と共に人生を歩んできました。日常での人づきあいはとても好きだし、初対面の人ともすぐに仲良くなれるのに、不思議ですね。本番に弱い、とはまさにこのことです。

お茶の点前というのは、全ての動作が決まっていて、間違いが許されない。その上、大勢の客人の前で点前をするというタフな状況で色んなハプニングに対処しなければならない臨機応変さも求められる。平常心どころか鉄板のような強靭な精神力があってようやく乗り切ることができるもの(大げさですが)。

初心者の私にそれが務まるのだろうか。日々悩んだのですが、結論としてはとにかく所作は覚え切ること、その上で落ち着いて挑むこと。自分を良く見せようという自意識を捨てること、誰のためかと問われれば、亭主と客人のためにただ茶を入れること。それだけを考えて場に臨むしかない、と思うに至り、本番を迎えました。

結局、一席目は上記のような考えとは裏腹に緊張感最高潮で、平常心とはほど遠い状態で、なんとか最後まで乗り切った、という感じでしたが、二席目については、それなりに場を眺めながら、亭主を助けつつ客人との会話も愉しみつつ、最後まで進めることができました。

茶会を終えて師匠と仲間と分かれ、実家に預けていた息子を迎えるために堺へと第二京阪をクルマで走らせながら考えたのは、つまり平常心とはどれだけ自我、自意識を捨てるかに尽きる、ということでした。自分のためではなく、目的や対象のために心と時間を捧げること。見られている、見られていないに関わらず同じことを同じように、最善を尽くして、取り組むこと。そこには自ずと美しさも伴ってくるのでしょう。自分を無にするよう努めていけば、いつか美しい自分という存在が自然にたちあがってくる。自分をごまかし、人をごまかす人間には、平常心は持てないのだろう、それがこれまでの私だったし、これからまだまだ続く私の課題でもあるのだろう、と思いました。

歴史の長い茶の湯には、利休という偉大な先人がいます。たくさんの本も残っていますし、身近な師匠という現実で教えを与えてくれる人もいます。引き続き精進を続けたいと、気持ちを新たにした一日でした。

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